「可哀想な子」
真っ白な部屋。
「物語を勝手に歪められて」
真っ白な少女。
「だから、怒った…いえ、哀しいんだのね」
可哀想な子。
もう一度そう言うと、クスクスと微笑う。ただ声に出すだけの、中身の無い笑顔で。
真っ白な部屋に佇む真っ白な少女は心までも真っ白なのだ。目を凝らさなければ見失ってしまう程に。
『白』
『空白』
『白紙』
そんな風に例えられる彼女は希薄な存在に思われるが、実際対面するとそれが誤りであると理解させられる。色を持つ此方ががおかしいと錯覚する程の圧倒的な存在感に、目眩を起こしそうになる。
「私にはそんな感情を抱く権利はありません」
アリシアは淡々とした口調で告げた。
「こうなってしまった原因は私なのだから」
「原因、ね…なら貴女が責任を取りなさい。知っている通り、あの『本』は未完成のまま多くの命を取り込み続けている」
この意味が分かるかしら?
アリシアは首を振る。
「分からない…けど、貴方が私に何をさせたいのかは分かったわ。…でも」
手に持っていた『本』を胸に引き寄せる。握る手に力がこもった。
「私には、あの場所に行く為の手段がない」
今ここにある『本』は何の変哲も無いただの本に成り下がってしまっている。あの日あの子に、盗られ奪われ無理矢理に引き剥がされた…あの瞬間に私の『本』は、その全て失った。あの物語が未完成である以上、あそこに入るには『執筆者』、つまりは『物語』の主が招待しなければいけないのだ。今の『物語』の持ち主は──、
「その問題はないわ。アノ子を貸してあげる」
そう言うと、真っ白な少女は右手を前に出す。白い空間に色が塗られ、輪郭が描かれていく。鍵だ。ハッキリとした形を持ったソレは少女の手の上にストンと落ちた。
「トゥイードル…そう言えば、分かるでしょ?」
◆◇◆◇
気が付いた時には、チェシャ猫の右腕は切り裂かれ宙を舞っていた。
──バシャン!
血の滲む水溜りに袖ごと落ちる。
突然のこと過ぎて目を見開いた。その僅かに生まれた隙を見逃さず、鋭い刃が再びチェシャ猫に襲いかかった。
「っ!?」
──筈だった。
「ざ〜んネン♪」
襲撃者の刃はチェシャ猫には届かなかった。逆にチェシャ猫が襲撃者を捉えていたのだ。
切り落とされた筈の右腕で。
「俺の腕はモウ無いんダ」
口角を歪に釣り上げ、残酷な笑みを浮かべる。
切り落とされた筈の腕からは黒い靄の様な何かが出ており、それが襲撃者の首を締め上げていた。
「コレは、女王ノ兵隊如きが傷を付けらレル様なモノじゃないんダヨ」
黒い手の中に捉えた襲撃者の少年に言い放つ。
ハートの女王の騎士。最年少にして02《デュース》のカード。別々の身体を繋ぎ合わせたかの様に、左右で違う髪色。左は黒髪。右は白髪で、僅かにこちらの方が長くなっている。
「何ノ用?俺は今ヒトを待っているんだケドォ」
「…」
デュースは答えない。喋れないように、口をマスクで覆っているから。
チェシャ猫によって釣り上げられているいま、デュースがしていることといえば感情の無い瞳で見つめ返すこと。
「あー、喋れナイんだっケェ??」
ケラケラと。
そっか〜、恨み言モ悲鳴モ聞こえナイのカァと。
無邪気に笑ってみせる。
それなら、
「ツマンナイから、バイバイ」
掴む手に力を込めた。
少しだけ力を入れただけでデュースの細い首は容易に音を立てて軋む。そして、
ボキン。
雨の音さえ打ち消すように、血塗れの街の一角に響いた。
◆◇◆◇
物語の中での天候は登場人物の心象を表すという。
ならば先ほどから降り続くこの雨は、誰の涙なのだろうか?
アリシアは雨に濡れながらそんなことを考えていた。静かな街を目的もなく歩く。トゥイードル・ダムとはここに来てすぐに別行動をとった。というよりは、彼に何故か嫌われているらしく物語の中に入った途端「役目は果たした、後は好きにさせてもらう」と言って姿をくらませてしまった。初対面の筈なのに、何故だろうか?
「…はぁ」
小さく溜息をつく。
いや別に、ダムに素っ気なく扱われた事がショックだったとかそういうわけではない。ここに来る前に言われた、少女の言葉を思い出していた。
──なら貴女が責任を取りなさい。
「責任、…ね」
なんとかしなくてはいけない。それは分かっている。しかし、そうする為にはやらなければいけない事があまりにも多過ぎた。一人でなどとても出来ない。それを考えると、この天気同様、気持ちが落ち込む。
パシャパシャと音を立てて路地を歩く。何度目かの角を曲がり、メインストリートへと出た。
開けた視界に飛び込んできたモノを見て、つい口元を押さえてしまった。
赤。
血。
肉。
赫、──あか、アカ。
自分の目がおかしくなった。そうであってくれれば、どれだけ良かったか。
メインストリートを真っ赤に染める血溜まり。その中心に比較的原形を留めている人らしき姿を見つけた。アリシアはその場に膝をつきたくなる様な嫌悪感を必死に抑えて血溜まりに一歩、足を踏み出した。
「…ッ」
嫌な感覚が足の裏から伝わってくる。それでも、引き返すわけにはいかなかった。私は、アレを確認しなければいけない。
散らばる肉塊を避けながら、少しづつ前に進んでいく。
なんとか、中心に辿り着いてソレを確認してみた。
「デュース…」
身体はバラバラにされてしまっていたが、左右で色が違う特徴的な髪で彼だと判別できた。
「…、なんで」
こんなことに。
続く言葉を飲み込み、恐る恐る腕を伸ばそうとした。
そのとき、
「汚れるよ、嬢ちゃん」
伸ばしかけた腕を背後から掴まれた。
振り返ると、長身の男がそこにいた。服の上からでも分かる位、しっかりと鍛え上げられた肉体。しかし、嫌な圧迫感は感じず、むしろ安心感さえ覚えてしまう。それはひとえに、その男の気取らない明るさによるのかもしれない。
トランプのエース。
ハートの女王の近衛騎士で、ジャックと肩を並べる王国ツートップの一人。眼帯で右目は隠されてしまっているが、左目からは強い意志を感じる。また、燃えるような赤髪が、赤と黒の制服によく似合っていた。
「いやー、しかし驚いたな。まさかまた、嬢ちゃんに会えるとは!」
人に好かれそうな笑顔を浮かべて、再開の喜びを全面に出していう。
こんな場所でなければ、私も再開を喜べたかもしれない。
「…」
いや、私に喜ぶ資格はない…。なんせ、彼らを見捨てたのは私なのだから。憎まれて当然なのに、笑顔で歓迎されると罪悪感が増す。
「この子」
話題を変えたくて、足元に視線を落とす。
エースも察してくれたのか、話に乗ってきてくれた。
「うん、デュースだね」
「誰だか分からなくなってしまってるけど、他にも沢山人がいる…。ここで一体何があったの?」
「正確には、『いた』だよ」
「…」
今はそんな言葉尻を捉える遊びに付き合える気分ではない。
「まぁ、冗談はさておき。ここで何が起きたかは見たまんま。誰かが、血生臭いショーを催した」
「誰が?」
「それ、聞く意味あるか?」
ニヤリと口角を上げる。
ある人物を連想して、つい目を反らしてしまった。すぐに、しまったと思ったがもう遅い。
「とっくに答えは出ているくせに、誰かに肯定されなきゃ進めないって本当らしいな」
ッフ、とエースの表情が消えた。心なしか声音も低く聴こえる。
目を反らしたまま戻せずにいるアリシアの横を通り過ぎて、デュースだったモノを粗雑に掴み上げる。
「そうだ、女王陛下が公爵夫人の所に様子を見に行くんだが、キミも来るかい?」
「…それは命令?」
「女王命令」
女王の命令は絶対。それが、この国でのルール。逆らったら首を刎ねられちゃうって設定なのだから仕方がない。それに、彼女達なら色々と教えてくれるかもしれないし。
「分かったわ、いつ行けばいいの?」
「さぁ?」
間を置かずに言われた言葉は、理解し難いものだった。
命令を使ってまで誘っておいて、肝心の日時が決まってないなんて。
有り得ない。
「おいおい、そんな顔してもしかたないだろ?キミがそうしたんだから。
──キミが、《ページを捲らない》(時間を止めた)から」